バッハを弾いていて、いつも思うことのひとつが繋留音によって生じる7度和音の美しさだ。これほどこの響きを殆ど偏愛に近く使う作曲家はこの時代もこの後もそう多くはない。しかも普通は禁じ手であるはずの7度音の連続に近い例まである。ほとんどドビュッシー並の(多少誇張ぎみだが)響きすら感じられる所すらある。
次の譜例は繋留音を使った効果的な第6番のガヴォットの冒頭である。
2小節目の最初の4音和音がこの響きが、繋留音から生じる音だが、この響きにはっとされない人はいないのではないだろうか。少なくとも僕はその一人だ。それほど美しい。この和音はジャズではM7(メイジャーセブン)という良く知られた和音だ。一番下のGから順に長3度、短3度の普通の3音和音の上にさらに長3度音(Fis)を積み重ねた音で、下のGからFisまでは長7度音の不協和音になる。だからこの二つの音は非常に緊張を生む激しい響きがするのが通常だが、バッハはちょっと貴族的で典雅なこのガヴォットの冒頭に美しい響きで使っている。
バッハがジャズの和音を借用するわけはないのだが、中学生の頃この曲を始めて聞いた時はバッハがジャズみたいな音を使っている事に夢中になってしまった。もちろんこの和声法はきちんとバロック時代の通常の繋留や先取音という対位法の考え方で説明が出来る。しかし、これほど頻繁にかつ美しく7度を使えるのはやはりバッハの天才と呼びたくなる。7度音(和音)または「繋留」「先取音」などの用語は今更説明するまでもないだろうからカットする。(笑)
このガヴォットの例は一番わかり易い例なのだが、他にも様々な形で非常に巧みにかつ、美しく使われている例が沢山ある。そういう例を次回から僕の考えも交えて紹介して行こうと思う。バッハの繋留の美しさ、大胆さが分かれば「無伴奏」の聞き方も変わって来るだろうから。
しかしバッハがなぜこれまでに7度の和音を好むのか、少し想像をたくましくしてみた。石造りの大きな教会でコンサートやオルガンを聞くと、残響が非常に長くて弾き終わった音が次の音と重なって聞こえて来る経験をお持ちの方も多いのではないだろうか
教会など残響の非常に長い所でしばしば起こる現象を簡単な譜例にして見た。
譜例1のような音形はそれぞれ発音されてから残響として残る。例えば残響2秒の所でこの譜面を四分音符60の早さで弾くと(二分音符の長さは2秒になる)それぞれの音がちょうど倍の4秒になる。そうすると譜例2のような現象が起きるわけだ。繋留音の使い方の典型的な例となる。この手法はバッハに限らず一般的にどんな作曲家でも使う。繋留の効果は、残響のないコンサートホールなどでもあたかも残響が発生したような効果を得られるし、チェンバロのような音が素早く減衰する撥弦楽器では連続する音をレガートに聞こえるようにわざと指を残しながら弾く事もある。譜例には示せないが、バッハの平均率1巻の第1番の有名なプレリュードは指を残して弾く事を正確に譜面に記した例である。(バッハのこういう厳格さはこの時代では非常に稀な事だった)
このように和声が変化しても、タイがかかって伸びている音を専門用語で「繋留音」と呼ぶわけだが、この訳語はあまり良くないなといつも思う。フランス語やイタリア語では「遅れた音」と言ったり、Suspendu(保留)と言ったりする。そういえば日本語でも保留音という言い方があったたかもしれない。英語圏ではサスペンションという事が多い。ジャズではSuspented4(4度音の保留)とかいう。
ここからは僕の想像だが、ルネッサンスからバロック時代にかけて音楽の先進的現場は常に教会であった。上で述べたような教会での残響から生じる不協和音に気付いていた人はおそらく結構いただろうと思う。ルネッサンス期は3音の完全和音(三位一体との関係もある)が主体で濁りの生じる音(長短2度、増4度、長短7度)は嫌われていた。特に増4度は「悪魔の音程」と呼ばれ忌諱されていた。しかし教会の中で歌ったり、オルガンを弾いたりしていると、残響のせいで嫌でもこういう音が出現して来る。それに敏感に反応したある意味先進的な人たちが繋留音の使い方を次第に確立して行ったのではないだろうかと思う。繋留音にはただし、厳格な規則があり繋留する音は「予備音」としてその前に必ず出ていなければならない。予備無しにいきなり出しては行けないことになっている。この規則は現在でも学校の対位法では厳格に守られている。まあ、対位法というバロック期に確立された技術を学ぶ為にあるわけだから当たり前ではあるが。
バッハは若い時からオルガン弾きとしてあちこちで弾いていたから、もちろんこういう経験を沢山していて次第に7度音程の和音の美しさの虜になって行たのではないか。そうしているうちに繋留で生じる和音そのものの美しさにもっと虜になったのである。ドビュッシーは「その和音が美しければ前後のつながりなんてどうでも良いではないか」と言って、アカデミズムに反抗したが、バッハの実直な(多分)性格はさすがにそこまで言わせなかった。言いたかったが言わなかった? そこでバッハのとった対策は「予備音」をそれとなく臭わせるアリバイだけを作って(又はチェロ組曲のように和声そのものが欠落しているのを良い事に)7度音を時に大胆に、時に優雅に使ってみせている、、、ような気がする。
これはあくまで僕の想像を膨らませて書いた事に過ぎない事をお断りするが。
copyrigt Naoki TSURUSAKI